海岸のレストランで [フード♪]
1月のある晴れた日
去年開店したお店に行った
晴れた日にここに行きたかったから・・・・
海岸を目の前に、カウンター席に座らないなんて勿体ない。(笑)
景色は最高!!!
(右上の黒いものはイルカウォッチに使うオペラグラスが置いてありました。)
サラダバーで小腹を満腹にして
今日の日替わりメインを食べながら
桜島と錦江湾と海岸をボーっとしながら
お昼のひとときを過ごすいい時間♪
ちょっと昔ならときめいた海岸散歩・・・・
する、二人・・・・を見つめ
ウィンドサーフィンの若者を見つめ
まどろんでいた・・・
ん?おっと時間がないじゃん!
このあとこの日のメイン行事行くんだった。(笑)
霧島神宮!!!犬飼の滝!!
では続きは、また次で(^^)/
母の原点 有田町 [気まぐれ日記]

陶山神社
暮れ正月と少し長い間佐賀に帰省していて
母の具合も少し回復したこともあって
久しぶりに母の原点に行ってみることにした
母は父と同じく昭和5年生まれでもうすぐ82歳になる。
母は佐賀県有田町で生まれた。
父と結婚してすぐに大阪の岸和田に移り住み、
私と姉を出産した。
それまでの母は、有田町という陶器の町に育った。
家のすぐ側には『陶山神社』がある。
名の通り、陶磁器の町である有田の守護神として祀られ、
鳥居が陶磁器で作られている、日本でも珍しい神社です。
この神社についてはまた後ほど詳しく書きます。

神社の入口は踏み切りがある!!

道の突当りは有田陶器市の中心地になる
で、こんな凄い神社のお膝元にある母の実家。
もちろん、陶磁器に関わらないわけがなく、
母の母は(私のばあちゃん)は明治生まれで
明治、大正、昭和初期まで陶器の窯元に絵付師として
働いていた。
宮内庁にも納めていた陶磁器の絵付けもしていたという。
母の話では家には菊の紋入りの皿があったそうだ。
で、ばあちゃんから聞いた話ではその宮内庁に納品する陶磁器の
絵付けをする人は極数人の絵付師で
仕事をする時は、周辺にしめ縄?らしきもので囲い
身を清めて白い着物で行っていたそうです。
ばあちゃん。。。。すごいよ。^^
その遺伝子、少しでも私に受け継がれたのかな?(笑)
深川製磁
香蘭社
話は母に戻して。
母はというと7人兄姉の末っ子で年の離れた姉さん(私の伯母)が
頭の切れる人で、戦前、食べ物の行商をしてお金を貯めて
この実家で魚屋兼雑貨屋を開いたそうなんですよね。
なので、母は生まれたすぐから魚屋で育ち
根っからの商売人として暮らしてました。
幸いにも有田は酷い空襲にはあわずに済み
戦争という実感はそんなにないそうです。
ただ、商売という苦労は沢山してきたと話します。
後に商才があった伯母は結婚と同時に実家のここを出てご主人の地元で
母と3人、2坪のうどん屋から
地元では名の知れた結婚式場や宴会場、
仕出し屋の店になる基盤をつくることになります。
時代は流れ、伯母の引退とバブルの影響と共に
今はそのお店はひっそりとなってしまいましたが・・・。
有田町という陶器の町に生まれ商売の環境で育った母。
私の幼少時代、母が帰省すると陶器市の店番や親類のお店を手伝わされていた。
何処を見ても”陶器・陶器・・・”なので、焼物はみんな有田焼と思っていた。(笑)
余談だけれど、幼い時、広くて大きいと思っていたばあちゃん家。
でも、こうしてみると・・・・・すっかり周辺の風景は変わり
オンボロのばあちゃん家が小さく見える・・・。
父(昭和5年生まれ)の戦争体験 [気まぐれ日記]

昭和16年、神戸にて戦争が始まる
まだ小学生だった父は戦争の意味が分からず、
そんなにも意識せずにいたが
昭和20年初め、神戸で中学生になった父は
学徒動員により、神戸の川崎工場で軍需物資を作らされる
その後、神戸空襲に遭い、焼け出される。
焼夷弾の嵐の中、死体を跨ぎながら助かり
長崎の松浦郡に疎開するが、
大村の川棚機密軍需工場に、またも学徒動員され
突然空襲に遭う。
その後、疎開先で戦争に耐え、8月・・・
同じ長崎だが、距離が離れていたため
原爆の被害はなかったものの、
遠くで凄いことが起きたと知らされ
終戦を迎えた。
そして焼野原となった神戸に戻り戦後の敗北と復興の中、高校生活を送った。
実家に帰省して、ニュースを見ていた
広島の慰霊碑の落書きの話から、
父が自分の戦争体験を話してくれた。
戦争は決してしてはいけない。
戦争の傷跡を決して軽んじてはいけない。
だから、こうして語り繋いでいかなければいけないことだと思う。
私のお正月 [気まぐれ日記]
正月三が日が過ぎましたね。
今年は、本当にお正月が祝えるのだろうか?と思っていました。
去年の母の入院と介護の日々が
重く重く私たち家族に圧し掛かってましたけど
年末に実家に帰省すると、
満面の笑みの母が腰は曲がってましたけど
自力で立って出迎えてくれました。
笑顔を無くし無表情の母だったのに・・・。
腰が立たず、杖を頼りにしてた母だったのに・・・。
自分が今、どうなってるのか?混乱で思考が停止し
会話もできなかった母だったのに・・・。
やっぱり私の母です。^^
昭和の激動を生きた底力のあるすごい人です。
私の最高のお年玉となりました。
その夜、布団の中でゆっくりと母の回復を噛みしめ泣きました。
そして、平成24年の元旦です。
おせちを頼み、姉家族と私と実家の父、母と楽しく年を取ることが出来、
仏壇でご先祖様に感謝しました。
もう少し実家にいて、親孝行して帰ろうと思います。
今年を振り返って 2011年末 [気まぐれ日記]
知人の愚痴に年末まで毎日付き合った今年でした。
で、思ったこと・・・愚痴は幸せのバロメーターだと。
本当に大変なことは愚痴にもならないこと。
愚痴の内容によって、その人がどのくらい幸せな中に居る事なのか。
人の粗探ししてる人は、それしかないという幸せ。
そして、言っている本人はその幸せに気が付いていないこと。
これも私の愚痴かな?(笑)
今年を振り返れば、巷では『絆』という一文字だったけど、
私の一年は『痛』かな・・・・
心が痛んだ一年だったように思う。
母の病への痛み、それを受け入れられない家族の痛み。
3.11の震災への痛み。何も出来ない自分の胸の痛み。
自分の持病で一番身近な人達を充分に助けられない切なくて苦しい痛み。
『絆』が深いからこそ『痛み』も深過ぎて
外見だけでも平静を装い痛みを発散しなければ自分自身の精神が壊れそうにも思えた。
今年、心の底から何回笑っただろうか?
小さな楽しみと幸せを繋いで、繋いで・・・暮らした一年。
きっと、殆どの人がそうだと思う。
だから、それでも、それでも・・・幸せなのかもしれない。
今年一年、お世話になりありがとうございました。
寂しい気持ちになる夕陽はどこかの国の旭日になっている。
その毎日ですね。
皆さん、『お疲れ様でした』
では、また来年よろしくです(*^ー^)/゚・:*:・。











